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ワーグナーの知られざる世界はまだあります!


このページでは、彼にまつわる初めての事に焦点を当てます!

ベートーヴェンの第九はワーグナーのお陰!?

史上初めてベートーヴェンの第九をピアノソロに編曲!


楽譜も自分で写してます!


少年時代のワーグナーはベートーヴェンの第9交響曲に魅かれ、自分で借りてはそれを手書きで写していました。コピー機が当然無かった時代ですから、こうして音楽は筆写されて広まったり、受け継がれていたのです。今でこそ第九は世界的にも有名ですが、19世紀の前半ではあまり評価されていませんでした。それが演奏されたとしても肝心な喜びの歌入りの第4楽章は省略されてしまう位です。

そんな曲の真価をワーグナーは早々と認め、自分でピアノ独奏用に編曲し出版社にも送りました。しかし、彼のピアノの技術があまり芳しくなかったこともあり、それが出版されるには至りませんでした。
その後も彼は第九に畏敬を払い続け、遂に1846年にドレスデンの演奏会で取り上げました。自身の情熱と音楽家としての経験もあって、大成功でした。しかも、その演奏会は復活祭前の日曜日に開かれる伝統的な行事だった為、この時でもって「第九」と毎年の伝統行事が結びつく事になったのです。ここから、日本やヨーロッパ諸国で特定の時期に第九を演奏するという恒例が出て来たのです。

肝心な編曲の出来栄えはと言いますと、上記の通り技術の面では平易ですがその分だけ単純明快でベートーヴェンの第9をそのまま忠実にピアノで再現していて変な装飾が無く聴きやすいものとなっています。それから、声楽の部分はそのまま残していて、ピアノ1台と一人の伴奏だけでも十分にヴォーカル付きの第9に親しめるよう上手い具合の構成をしていると思いました。

演奏効果の関係上、このワーグナー版の演奏も録音も稀ですが、ベートーヴェンの第9が世間的に初めて真価を認められ、今日の人々に親しまれているのはワーグナーのお陰なのです。

ワーグナー初のオペラ

その名も妖精!


しかし、その上演は本人の死後!


この曲は21歳の時、ワーグナーが初めて完成させたオペラです。それよりも2年前に「婚礼」というオペラに取り組んでいましたが、台本が不道徳的と姉に言われて作るのを途中で止め未完成となっています。

この「妖精」の創作当時のワーグナーといえば、大学を中退し定職に就く見込みもありませんでした。その中で兄の縁故でヴュルツブルクの劇場スタッフをやっていました。主に合唱の指揮を担当し、様々なオペラの上演にも携わるなど最初期のキャリアアップをしたのです。その期間は1年だけで1834年1月にライプツィヒに戻って完成させ、姉からも評価されました。ですが、その上演はワーグナーの生前には実現せず、彼の死から5年後、1888年にミュンヘンで初演されています。

では音楽に関してはと言うと、全体的に温和な響きをしていて、一般的に連想される様なワーグナーの個性はさほど顕著ではありません。彼の最初期の作品にはよくある事であり、ウェーバーやハイドンなど自分より先の作曲家をお手本としています。その為、「ワルキューレ」などの代表作と比べても精度は高くないです。

しかしながら、この作品も分析をするとワーグナーは最初のオペラからワーグナーであったことが分かり、オペラの作曲に当たっての基軸を打ち立てた事が分かります。実はこれ、私が大学4年生の時に解き明かしていて、学生時代の最後のレポートのネタにしたのです。

具体的に言ってしまうと、まず動機の使い方が挙げられます。何らかの人物や物事を表現する手段として特定のメロディを繰り返し用いては、場面や心境に合わせて曲調が変化するのです。登場人物が嬉しい時は明るめに、心が沈んでいる時は暗めになります。こうした柔軟性のある主題の用い方は、最後のオペラに至るまで使われています。

もう一つには、物語の題材が挙げられます。「妖精」の筋書きを大雑把にすると、「架空の国の人間の王子が妖精の女と恋に落ち、2回も禁忌を破って妖精が石となるも、王子が歌を歌って彼女を救い夫婦で妖精の王国を統治する」というストーリーです。この作品において「禁忌を破る」「歌が重要な役割を果たす」といった主題をはじめ、ここには載せきれない物語の要素が、後のワーグナーのオペラにも登場しています。

このようにしてホームページ作りをしているだけでも私自身、懐かしい気分になります。「妖精」はオペラの作曲家としてのワーグナーの原点を感じさせるある種の隠れた名曲とでも言いましょうか。

ワーグナー初の上演されたオペラ

タイトルは恋愛禁制!


舞台はイタリアのシチリア半島!


この曲は1834年から翌年にかけてワーグナーが作詞作曲、1836年に上演されました。

その頃のワーグナーはというと、「妖精」が上演されず、気持ちを切り替えて新たにオペラを作るところでした。そんな中、ベッリーニというイタリアの作曲家のオペラに感銘を受け、自分もその国の様式で書く決意をしたのでした。前に述べた序曲「コロンブス」と作風が異なっているのはこの為です。オペラの本場がイタリアですから、ワーグナーもある種の原点回帰をここでも行ったと言えます。その頃の彼はマクデブルクでの劇場の指揮者に就任、そこで「恋愛禁制」を初演しました。ですが、劇場が経営難に陥り、まともに練習もできない、歌手同士も不仲と散々な目に遭っています。

この音楽自体はイタリアオペラの影響から、軽妙洒脱で小洒落ています。こんな不遇な作品にもワーグナーの個性が多少表れていて、長々とじっくり聴かせる深みある独唱とドレスデン・アーメンの旋律の登場から窺えます。前者は以降のオペラにも度々登場、後者は修道院の尼僧の合唱で歌われています。イメージ写真がパレルモの修道院であるのはこの為です。この合唱は小振りですが、後の合唱の音楽に先駆けた美しい旋律線を有しています。なお、ストーリーは「ドイツ人の代官が恋愛禁止令など行き過ぎた政令を出し、イタリア人貴族の若い男を取り締まるも後者の妹が前者を出し抜いてその政令を破らせ、結果的にそれを廃止にして皆が喜ぶ。」というものです。ドイツ人も登場していて、ドイツ語の台本で書かれている事からも、ドイツ人としての自負も感じさせます。

更に楽器編成も拡大され、管楽器の人数も打楽器の種類も前作より増えています。この様なワーグナーの大編成志向はこの時から始まり、この作品以降も編成の違いはあれど大きめのオーケストラが用いられることになります。

総じて言えば、イタリア音楽に倣いつつも自身の個性・ドイツ人のアイデンティティを前作の「妖精」以上に取り入れた佳作と言えます。

ワーグナー初の成功

リエンツィ、最後の護民官!


舞台はローマ!


この曲は1838年から1840年にかけて作曲されました。その頃のワーグナーは現在のラトビアのリガで指揮者をやっていたものの、浪費癖の贅沢で借金まみれとなり夜逃げして命からがらパリに移住して活動していた頃です。

当時のパリには多くの芸術家が集まり、成功を夢見てやって来る者もいれば、既に成果を出している者もいて、昔から芸術の都だったのです。そこでワーグナーはパリの市民に合うようにフランスのオペラの様式で作曲をしました。それはグランドオペラの事で、バレエが必ず伴う位に編成も演出も壮大なオペラの事です。幕も4幕か5幕で構成され、演奏時間も長大です。彼の場合、前作の「恋愛禁制」よりも編成が大きいです。

しかし、パリでは上演のめどが立たずに、1842年にドレスデンという今日のドイツの都市で初演されました。その時間は4時間以上で休憩込みで深夜12時にやっと終わりました。にも拘らず、「リエンツィ」は大成功で聴衆も最後まで観劇して、この作品でもって初めて自分のオペラで成果をものにしています。ただ、その当時も演奏時間が長すぎて経済面などで問題が出ていました。その関係で現在では部分的な省略を行った上で、3時間程度の演奏時間での上演・録音が一般的です。

では、音楽的にはどうなっているのかと言いますと、形式自体はフランスのオペラであるものの、作風は一般的に連想する様なワーグナーの傾向を全体的には示しています。しかしながら、「リエンツィ」は様式が妥協の産物で本人も認めているように、後のオペラの作品群と比べ見劣りしてしまう事もあり、そこまで演奏される機会は多くないです。

ここで台本の内容を述べます。物語は14世紀のローマが舞台です。同地のコロシアムをイメージ写真にしたのはその為です。主人公はリエンツィで、彼は民衆からの支持で護民官になり、貴族たちの専横で荒れたローマを変えようとしましたが、貴族らの策謀と教会からの破門宣告で破滅して死んでしまうというバッドエンドの流れです。

この作品においてワーグナーの個人的な政治関係の思想が反映されていると感じました。なぜならば、彼は君主制と伝統慣習すなわち國體の支配の元、ドイツ民族の権利が保障された統一ドイツの国家を理想としていた為です。これをリエンツィと照合して考えますと、道徳を無視する等して理性の支配だけの政治やその民主主義では身を亡ぼす事・国民の一人一人が伝統慣習などに畏敬を払って賢明にならなければ自国民も国も滅亡する事が作曲者の裏のメッセージとして伝わりました。ヒトラーもこの曲を愛しましたが、そんな奴がリエンツィと同じ様な運命をたどったのは皮肉な事です。

総じて言えば、形式自体は他国に受けるよう作られたものの、音楽的にも思想的にもワーグナーの理念と才能が十分に開花した作品であり、出世作になったのも納得です。

ワーグナーの初息子

その名はジークフリート!


子孫は今も健在です!


ワーグナーには一人息子がいました。1869年生まれで、自分のオペラの主人公に因んでジークフリートと名付けます。その翌年には生んでくれた奥さんにもねぎらいの意を込めて、「ジークフリート牧歌」というオーケストラの音楽を作曲しました。初演は彼女の誕生日、指揮は作曲家本人で15人という小編成を指揮しています。唯一の息子が生まれ、ワーグナー姓を引き継ぐ跡取りがやっと出来た事には喜びも大きかったことでしょう。

なお、ジークフリート・ワーグナーは音楽家となり、バイロイトの劇場の運営を引き継ぎました。その劇場については後の項目で述べます。彼は指揮者としては腕前が良く、バイロイト以外でも活動し、自分の父親の作品も録音しています。作曲家としてもオペラなど色々な作品を作りましたが、彼の作品はあまり良質ではなく、現在においても滅多に演奏されません。私もワーグナーの息子の作品集を聴いた事はあります。曲の傾向としては、凡庸な初期ロマン派の傾向で、20歳頃の父親がもしもあの調子で作曲家を続けていたら、あの様な作品ばかり生まれていたのかなと思いました。時代的にも遅れを取っています。

なお、このジークフリートには男と女が二人ずつで四人の子供がいて、その内の一人の娘は去年の2019年まで生きていました。更に、その二人の男にも子が出来て、代々ワーグナー家の当主としてワーグナーの音楽を継承しています。

今なお家系が続いている音楽家の中では一番華やかに音楽をやっていると言えましょうか。

史上初の自作専用の劇場!

About me

場所はバイロイト!


毎年夏に開催!


ワーグナーに息子ができた頃、バイエルンの国王の援助のもとお金に困らずにミュンヘン住まいでした。同地で自分の新作(あのワルキューレ込み)上演に新たな劇場を造ろうとします。その国王は次の項目で述べます。

しかし、日常的な娯楽として自分のオペラが扱われないよう、後にその場所をバイロイトに変更し、史上初の自作専用のオペラ劇場が誕生です。右のイメージ写真がその外観です。1871年に同地で非日常的な場としてそれを作り、1873年に完成です。その間にワーグナーもバイロイトに引っ越し、その建設予定地の定礎式でベートーヴェンの第9を演奏しています。その影響で、その後もそこでは第9の演奏も合計で7回されています。

では、初めてバイロイトで上演されたのは何かと言いますと「ニーベルングの指環」という長大な作品で、演奏時間は14時間ほどで4日間に渡って演奏されます。その為の資金調達もワーグナーは行っていて、1876年に上演されました。その頃のドイツは1871年にやっと統一国家が成立してばかりで、そのオペラの上演がドイツの一大イベントとなり、ドイツ皇帝などの各地の君主やチャイコフスキーなどの高名な音楽家、ワーグナーの知人も集まった程です。その興行自体は大成功でしたが、莫大な赤字を生んでしまい、1882年になるまでバイロイトではオペラが上演されませんでした。

現在においてバイロイトでは毎年の夏にワーグナーのオペラが上演され、それはバイロイト音楽祭として話題となっています。ただ、上記の3作品はワーグナー本人の意向で上演されずそのせいもあり、他の彼の歌劇と比べその3作はあまり演奏されません。先に述べたジークフリートを始め、ワーグナーの血を引く者たちが代々継承して、その音楽祭を取り仕切っています。クラシック音楽界の中でも屈指のイベントであり、世界一入手が困難とも言われています。数年後に上演されるチケットをわざわざ購入するという話も聞いています。

ワーグナー初の経済的安定

バイエルン王国の国王!


ワーグナーの熱狂的なファン!


ワーグナーは借金まみれで贅沢好きな浪費家だったことは前にお伝えしました。そんな彼は51歳になるまでお金で悩んでいた生活をしていた側面もあります。本人に稼ぐ能力はあるもお金を残す能力が無さ過ぎました。ですが、そんな彼を救ったのがルートヴィヒ2世だったのです。ルートヴィヒはバイエルン国王で、15歳の時にワーグナーのオペラ「ローエングリン」に感銘を受けてこの人の音楽に心酔、18歳で国王になって最初の発令が「ワーグナーを探せ」だった事からも熱狂ぶりが尋常ではないです。それにより両者は同国の首都ミュンヘンで会い、この音楽家は莫大な援助と受け取って別荘もこの王様から提供を受けました。

しかし、同国の市民も側近の大臣もその事を良く思わず、その圧力でルートヴィヒ2世はワーグナーをミュンヘンから追放します。その時、その国王も本心ではない追放令で自殺しそうなくらいに意気消沈していたそうです。その後もこの君主はその作曲家に熱狂していた一方、人間的には相当問題があり、バイエルンの負債をワーグナー一人の援助の為に作ってしまいました。そして晩年には幽閉されて湖で謎の死を遂げています。

一人の君主が莫大な援助を大作曲家にするほど熱烈に崇拝した世にも稀な事例です。

私にとっての初ワーグナー

実はダイソー!


当時は小五!


これは完全なおまけですが、私が最初にワーグナーの音楽を聴いたのは小学校5年生の時でした。
父に買ってもらったクラシック音楽のオムニバスのCDを繰り返し聴いていたのをよく覚えています。その中にはワーグナーのオペラ「タンホイザー」の序曲がありました。アーティスト自体は全然無名でダイソーで買ってもらったやつなので、そこまで演奏の質も高くは無いです。それでもなお、私にとっては貴重なクラシック音楽のCDだったので、何回も聴いていました。

そこから更に、ワーグナーの伝記を小学校の図書館で読み、彼への理解を深めました。その後も彼について書かれた本を読み、テレビでも観るようになります。中学高校と進学してからはお小遣いでワーグナーのCDも買い、ラジオの録音もしています。大学時代はこの音楽家の「タンホイザー」を最初のレポートのネタにして、その後も彼のDVDを借りたりして触れています。前にも述べましたが最後のレポートもワーグナーを題材にしていましたし、ワーグナーで始まりワーグナーで終わった大学生活でした。

私にとってワーグナーは自分の人生とも結びついている存在です。

About me

このページのまとめ


ワーグナーの第九

ワーグナーはピアノソロの伴奏とボーカルだけで演奏できるように編曲する程、第9に熱を入れていてその結果、今日の様にその曲が評価されるようになりました。

妖精

ワーグナー初のオペラでしたが、彼の個性は発揮されず生前には上演されませんでした。

恋愛禁制

イタリア系のオペラを作り初上演のオペラでしたが、失敗作です。

リエンツィ

フランス系のオペラで、これにより29歳にしてようやく世間的な成功をワーグナーは収めました。

ジークフリート・ワーグナー

不倫でワーグナーは一人息子も作り、その子孫は現在も存命です。

バイロイト

ワーグナーは自分の作品専用のオペラ劇場を造り、現在もその子孫に継承されています。

ルートヴィヒ二世

この君主がワーグナーの大ファンだった為、この音楽家は経済的安定をやっとものにしました。

ワーグナーとの出会い

ダイソーのオムニバスCDの中にワーグナーのオペラの抜粋が入っていて、それが初めて聴くきっかけでした。